雪舟は室町時代のほぼ中頃、応永27年(1420)、備中国窪屋郡三須村字赤浜(現・岡山県総社市)に雪舟は生まれている。幼名は等楊といった。江戸期の『本朝画史』には、生家を小田氏と記されているが、生没年さえ異説が多く、父母の名も不詳だ。恐らく地侍、土豪の子だったのではないかと思われる。幼少の頃、赤浜から3里ほど山奥へ入った宝福寺に預けられたとの伝承がある。その後、成長し12〜13歳で宝福寺の小僧となっていた雪舟は、すでに何よりも絵を描くことが好きで、経も読まず、朝から晩まで筆ばかり持って、一向に禅宗の修行に精を出さない。師僧はたびたびこれを戒めたが、彼は叱られても言うことを聞かなかったという。
 雪舟はその後、京都五山の一つ、相国寺に姿を現す。文安4年(1447)、高名な禅僧春林周藤が相国寺鹿苑院に入り、「僧録司」の位(官寺の総裁職)に就いたが、寺内の記録にこの頃、初めて雪舟が現れるのだ。彼の役職は、来客をもてなす茶坊主のようなものだったのではないかといわれる。彼は恐らく相国寺にあって絵画修行に邁進していたのだろう。当時の京都五山は、“五山文学”とも呼ばれるように、儒学勃興の機運があり、漢籍詩文の研究が活発な時代だった。禅画としてスタートした日本水墨画も例外ではない。
 禅画僧の如拙とその弟子・周文、あるいは秀文に代表される興隆期を迎えていた。如拙は宋の馬遠・夏珪・牧渓らの水墨画を学び、多くの弟子を育てている。そして、これら3名の禅画僧は相国寺にいたのだ。雪舟は文字通り、京都という中央画壇の中心地にいたわけだ。
 ところが、「僧録司」の春林周藤は、相国寺山内の塔頭寺院は、文人画家の書斎やアトリエと化し、禅宗僧の修行は行われていない−との思いを強くし、山内の大改革を志した。そのため、雪舟は次第に窮屈な、身動きの取れない境遇へ、心身ともに追い詰められていったものとみられる。そして、寛正6年(1465)頃、彼は唐突に相国寺から姿を消し、漂泊の旅に出、周防の山口へ入る。雪舟
45歳前後のことだ。
 守護大名・大内氏の本拠地である山口は、対明貿易を背景に、経済・文化の一大中心地として栄えていた。雪舟はここで「雲谷庵」というアトリエを構え、画筆三昧の生活を送りつつ、中国渡航の機会を待った。応仁元年(1467)、遣明使節の末端の雑役で、48歳の彼は正使の船に乗り込む。京都で起こった応仁の乱で、遣明使の内部が分裂。結局大内氏の船だけが明国を目指し、翌年寧波に船は到着。雪舟は一行とともに、宋五山の一つ、天童山景徳寺に登った。そして3年ほど滞在し、精力的に風俗を見、中国の雄大さと水墨画の技法を学び続ける。しかし、当時の明の画壇には北宋や元のころのような活力はなく師匠として仕えるべき画人は見い出せなかった。つづく
 雪舟 日本の水墨画を完成