大海人皇子(天武天皇)と中大兄皇子(天智天皇)の二人に愛された額田王のロマンスは日本古代史を飾る大輪の花のように華やかな光彩を放っている。彼女は初め、宮廷に仕えていたとも言われているが、美しいうえにずば抜けた歌の才能を持っていた。「万葉集」には長歌三首、短歌九首が載り、万葉初期歌人中、群を抜いている。落ち着いた愛の歌、女の息吹が聞こえる情熱の歌など数が多いだけでなく、格調も一段高い。「万葉集」のスターだ。
 天智天皇が蒲生野で薬草刈りをしたとき、彼女と昔の恋人・大海人皇子の間に取り交わされた相聞歌
あかねさす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖ふる
はとくに有名。これは怖い亭主(天智天皇)のいる前で、かつての恋人(大海人皇子)が人目を忍んで手を振るのを見てハラハラするというものだ。そして、これに応えて、大海人皇子は
 紫の匂える妹を憎くあらば 人妻ゆゑにわれ恋ひめやも
と歌っている。
 しかし、近年の研究分析では、これらの歌は密かに贈った歌ではなく、薬草刈り後の宴で、この二人がかけあいで詠んで宴の興趣を盛り上げたという説が有力になっている。したがって、兄弟で一人の女を取り合って火花を散らしたということではないようだ。
 また、当時の女性は二婚三婚しているケースは決して珍しいことではない。一人の女を二人の男が争うといっても、命を賭けるような争いにはならず、きょう結婚してあす別れ、一週間後に別の男と、などということはよくあったという。現代の“不倫”などとは全く違う次元のものだ。
 額田王をめぐって、中大兄皇子と大海人皇子の兄弟が争って、それが壬申の乱になったという説があるが、これは俗説だ。ただ、斉明女帝の御世、朝鮮出兵のとき伊予で有名な
熟田津に船のりせむと月待てば 潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
と歌ったころに、額田王の心は夫・大海人皇子から中大兄皇子に移ったといわれる。
というのは、この少し前に中大兄皇子は自分の二人の娘(姉・大田皇女と妹・後の持統天皇)を大海人皇子に嫁がせている。これは皇太弟で実力者の大海人皇子を抑えるための、いわば懐柔策ともみられているが、恐らく額田王としては内心穏やかではない。二人の皇女は自分より10歳以上も若いのだ。そんな精神状態のとき、これはあくまでも推測だが、中大兄皇子が「ゆくゆくはあなたの娘(十市皇女)をわが子大友皇子(弘文天皇)の嫁にもしよう」といったような、いい条件を持ち出して口説いたのではないか−と思われる。中大兄皇子はこのときの朝廷一番の権力者だ。そこで、娘の十市皇女の将来を考え合わせ、才女・額田王は中大兄皇子に乗り換えた(?)のではないか。その結果、二人の兄弟天皇に愛を受けた女性、額田王というヒロイン像ができあがったのだ。
(参考資料)永井路子「茜さす」、黒岩重吾「茜に燃ゆ 小説 額田 王」、永井路子対談集「額田 王」(永井路子vs大岡信)、日本史探訪/池田弥三郎「古代の激動期を彩る女流歌人 額田王」
 額田 王 天武、天智両天皇とのロマンスが光彩放つ万葉集のスター