藤原薬子は平城天皇が皇太子(安殿親王)のとき、長女を皇太子に仕えさせるため、付き添いとして宮中に上がったところ、母の薬子も皇太子(安殿親王・後の平城天皇)の目にとまり、愛を受けるようになってしまう。彼女は中納言藤原縄主との間に三男二女と5人の子を産んでいたのにだ。相当、魅力にあふれた、すばらしい中年女性だったのだろう。
 最初は時の桓武天皇の怒りに触れ、薬子は宮中から追放される。ところが、延暦25年(806)3月、桓武天皇が崩御すると宮廷の女官の資格を取ったうえで再び宮中に復帰、後宮を束ねる尚侍(ないしのかみ)に就任する。 
 安殿親王は延暦25年(806)5月即位し、年号を大同と改め平城天皇となった。その翌日、平城天皇の12歳年少の同母弟、賀美能親王を皇太子に立てた。平城朝がスタートすると、薬子は天皇の威を借りて傍若無人の振る舞いに出る。薬子の兄の藤原仲成までもが勝手な行動に出て、大いに周囲のひんしゅくを買った。薬子が天皇の寵愛を一身に集めているのをよいことに、仲成は伊予親王事件に揺れる南家を尻目に藤原式家の繁栄を図った。
 平城天皇は生来病弱で、藤原氏内部の抗争などにも翻弄されたが、桓武天皇が都の造営や蝦夷征討によって国家財政を逼迫させたのを受けて、財政の緊縮化と公民の負担軽減とに取り組んだ。また官司の整理統合や冗官の淘汰を進め、官僚組織の改革に先鞭をつけた。この間、天皇は何度か転地療養を試みたが、その効なく在位3年余りにして大同4年(809)4月、皇位を賀美能親王(嵯峨天皇)に譲り、平城旧京へ隠棲した。
 ところが、嵯峨朝がスタートしてほどなくすると、平城上皇の健康はにわかに回復へと向かい、いまだ30代という若さも手伝って国政への関心を示し、上皇の命令と称して政令を乱発するありさま。当然のことながら、側近の薬子や仲成も政治の舞台への未練を捨てきれず、遂に平城上皇に重祚するよう促した。   上皇方の動向を苦々しく思っていた朝廷も、当初は摩擦を避けるため薬子らの横暴に耐えてきたが、その結果「二所の朝廷」と呼ばれる分裂状態に立ち至った。
強気の上皇方は大同4年11月、平城京に宮殿を新たに造営しようとした。そして翌5年、上皇から平城京への遷都を促されるに及んで、遂に嵯峨天皇の朝廷は「二所の朝廷」といわれる事態を打開しようと立ち上がった。朝廷は仲成を捕縛するとともに、正三位の薬子の官位を剥奪した。事態の急変に慌てた上皇は東国への脱出を試みたが、朝廷の命を受けた坂上田村麻呂の軍勢によって行く手を阻まれ、失意のうちに平城京に戻って剃髪し、出家した。薬子は毒を仰いで自殺して果て、仲成も射殺された。
この薬子の変により、嵯峨天皇の皇太子だった平城天皇の第三皇子、高岳親王は廃太子となり、代わって大伴皇子(後の淳和天皇)が立太子し、上皇の系統と悪しき側近政治はここに絶たれた。
藤原薬子が本当に悪女だったのか、平城天皇を心から愛し続けた一途な女性だったのか、ドラマチックな彼女の真の人生を書き残したものがなく、本当のところは分からない。
(参考資料)永井路子対談集「藤原薬子」(永井路子vs池田弥三郎)、北山茂夫「日本の歴史4/平安京」、杉本苑子「檀林皇后私譜」  
 藤原薬子 平城天皇の威を借り兄と背後から政治をろう断した悪女?